素朴に考えよう/中村三春

素朴に考えよう

中村三春(『物語主義』著者)

 本書『物語主義 太宰治・森敦・村上春樹』の巻末に、筆者の主要著作年譜を付してある。その中に、『物語の論理学 近代文芸論集』(2014年2月、翰林書房)のタイトルが見える。同書と本書は、物語を主要なコンセプトとした点において共通し、その起点としてロラン・バルトの「物語の構造分析序説」や野家啓一の『物語の哲学』を置いたことまで同じである。その意味で本書は同書の一種の続編としての位置を占めることになるのだが、一つ大きな違いがある。

 同書では、中上健次の『風景の向こうへ』などで示された「物語」と「文学」、あるいは伝統的な「物語」と近代的な「小説」とを対比する理論を批判的に継承している。中上は、伝統的な「物語」が共同体の〈法=制度〉の定型的な表現であり、「文学」が自我の告白中心のやはり制度的な所産であったのに対して、「小説」を様々な「交通」によって両者の定型性・制度性を打ち破るようなジャンルとして定義した。しかし同書において筆者は、物語の一貫性の観点から見れば、伝統と近代との間の切断線は明瞭ではなく、むしろそれらはいずれも物語における〈変異〉(mutation / variation)の多様なあり方にほかならないのではないかと認め、その観点から、明治より現代に至る物語のテクストを論じたのである。

 一方、このような、いわば歴史的な荷重を負った物語観に対して、本書における物語のとらえ方は、至ってシンプルなものである。それはすなわち、〈物語は自らを見せつけ、読ませようとする〉こと、あるいは、バルトの言葉を借りれば、物語は〈物語の誇示〉そのものを基本的な目標とする、ということである。〈物語は本質に先立つ〉とは、そのことを意味している。

 もっとも、『物語の論理学』においても、〈物語の誇示〉の方略として、物語における〈誘惑〉と〈差異化〉を筆頭に挙げているから、やはり両者は連続するものなのだが、とにかく本書が基底においたのは、《素朴に考えよう》ということに尽きる。その理由は、近来、物語論が盛んに行われる反面、むしろ論理構成が大げさになり過ぎることにより、本来の物語のあり方が見失われる危惧があると考えたからである。

 この見方に応じて、本書における物語の定義もまた、何にせよ物が語られればそれは物語であり、語ること、および語られたものはすべて物語(narrative)であるとする最小の(ミニマルな)記述としている。たとえば、野家が歴史や科学も文芸とともに物語に包括してとらえたことを思えば、小説・戯曲だけでなく詩もまた物語なのである。それらはすべて、それ自体の〈誇示〉をすることを目標として、あるいはそれを前提として、その内容や構造が設(しつら)えられているのである。その発生でも、それによる帰結でもなく、そこにある物語、あるいは、物語がそこにあることそのものを凝視すること。従って本書の発想法は、現象学・記号学・解釈学のそれに近いだろう。

 二部構成の本書において、「Ⅰ 物語と虚構の文芸学」に収めた4章は、それぞれ虚構と物語の関係、作者の理論、コンテクストの理論、そしてテクストと論述における例外性の理論を扱っており、いずれも文芸理論では古くて新しい問題を論じたものである。これは筆者の初期の単著である『フィクションの機構』(1994年5月、ひつじ書房)の理論の、取りあえずの完結編と考えている。続く「Ⅱ 小説と映画の物語」の全10章は、『白樺』派、芥川龍之介、太宰、森、村上、そして小川洋子の作品と、またそれを原作とした映画について検討したものである。それぞれの論述の過程において、小説の定型や再帰性、語りや文体、翻案や映画化などの第二次テクスト性、物語の公理やフィクション性との関わり、そして何よりも、物語主義の観点から、それらが自らをどのように〈誇示〉しようとしているかに重点を置いて論じたのである。

 これらのテクスト分析には様々なテクスト理論が援用されているが、根底にあるのは、ネルソン・グッドマンの『芸術の言語』や『哲学とその他の芸術・学問における新たな構想』(邦題『記号主義 哲学の新たな構想』)などによって拓かれた分析美学の手法である。これは、思考上の夾雑物を一切排して、物語がそこにあることに注目するための理論として、最適な解を与えてくれる。『世界制作の方法』も併せて、これまで筆者の物語やテクストに関する考え方を支えてくれたのがグッドマンの思想であった。これは『フィクションの機構』以来、変わっていない。本書では具体的には、リアリズム概念については『芸術の言語』に、作品の存在様態や第二次テクスト性については『新たな構想』に負っている。

さて、『物語の論理学』と本書、さらにそれ以外のこれまでの著書において、小説テクストと物語の繋がりについては継続的に論じてきた。ただし、上に書いたような、〈詩もまた物語である〉という主張は、大方にとってはかなり奇異に響くものだろう。本書をまとめた後の次の課題としては、この、物語と詩との結びつきについて、理論的かつ歴史的に検証することである。これはまた、前著である『ひらがなの天使 谷川俊太郎の現代詩』(2023年2月、七月社)で論じた内容の延長線上に現れた課題でもある。詩もまた物語なのだ。筆者はこの後、この問題に注力しようと考えている。

物語主義──太宰治・森敦・村上春樹

中村三春 著

2024年2月24日

定価 3,400円+税

「同人文化」の社会学──コミケをはじめとする同人誌即売会とその参加者の織りなす生態系を描く


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「同人文化」の社会学
コミケをはじめとする同人誌即売会とその参加者の織りなす生態系を描く

玉川博章 編

定価:本体2,600円+税

2024年3月5日刊
四六判並製 / 320頁
ISBN:978-4-909544-35-3


同人界隈の日常的実践
頼まれたわけでもないのにマンガを描き、ゲームを作り、それを自主制作物として商業流通によらず誰かのもとに届ける。
こうした同人活動に着目し、それを支える同人誌即売会や印刷所なども含めて「同人文化」としてとらえ、その様態を描き出す。


目次
序章 「同人文化」の研究にむけて──関連研究レビューからの視座/玉川博章

第1章 中小規模即売会からみる同人文化──主催団体代表・運営スタッフへのインタビューから見えてくるもの/玉川博章

第2章 メディア融合時代における参加型文化──コミティアのスタッフを実例として/ヴィニットポン・ルジラット(石川ルジラット)

第3章 同人サークルの制作動機とその変化──デジタル化とグローバル化の時代の同人ゲーム制作者に注目して/小林信重

第4章 同人誌業界のオープンプラットフォーム化──営利企業の動きを中心に/飯塚邦彦

第5章 コロナ禍での同人誌即売会の経験──エアコミケは「本物」の即売会になったか?/杉山怜美

付録 コミックマーケット35・40周年調査報告/玉川博章・小林信重

あとがき/玉川博章


編者
玉川博章(たまがわ・ひろあき)
日本大学、武蔵野美術大学等非常勤講師。文化研究、メディア論。
共編著に『マンガ探求13講』『マンガ研究13講』、共著に『オタク的想像力のリミット──〈歴史・空間・交流〉から問う』『メディア・コンテンツ産業のコミュニケーション研究──同業者間の情報共有のために』『雑誌メディアの文化史──変貌する戦後パラダイム』など

書評・紹介

ほんのうらがわ(編者による刊行エッセイ)

物語主義──太宰治・森敦・村上春樹


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物語主義
太宰治・森敦・村上春樹

中村三春 著

定価:本体3,400円+税

2024年2月24日刊
四六判上製 / 320頁
ISBN:978-4-909544-34-6


物語は自らを生成すると同時に媒介される。虚構・小説・映画を理論的に横断し、メタフィクション、語りの変異、逸脱するメタファーなど、テクストに入り込む雑音の軋みに耳を澄ませる。
芥川龍之介・太宰治・森敦・村上春樹・小川洋子らの小説やその映画化作品を主に論じる。


目次

はしがき

Ⅰ 物語と虚構の文芸学
第1章 虚構論と物語論──イーグルトンとウォルトンの虚構理論から
第2章 作者の理論・素描──加藤典洋・竹田青嗣のテクスト理論から
第3章 テクスト・断片・コンテクスト──三浦玲一のグローバル文化理論から
第4章 雑音調〈例外状態〉の文芸学──竹内敏雄の現代美学理論から

Ⅱ 小説と映画の物語
第1章 蝕まれるべき友情──小説構造から見た『白樺』派の小説
第2章 芥川龍之介のメタフィクション
第3章 太宰治におけるテクスト様式の成立──初期小説の研究
第4章 太宰治と複合的小説構造──作品集『女の決闘』
第5章 太宰治『斜陽』とチェーホフ『桜の園』──ファルスのオリジナリティ
第6章 森敦「月山」の小説と映画──〈境界〉などというものはない
第7章 物語の変容──森敦『われ逝くもののごとく』と「ハーメルンの笛吹き男」
第8章 村上春樹の小説と〈メタファー〉──『海辺のカフカ』と『騎士団長殺し』
第9章 村上春樹の小説における戦争──『ねじまき鳥クロニクル』『アフターダーク』『騎士団長殺し』と映画『ドライブ・マイ・カー』
第10章 現実性の境界事象──小川洋子『原稿零枚日記』


あとがき
初出一覧
索引→公開中
主要著作年譜


著者
中村三春(なかむら・みはる)

1958年岩手県釜石市生まれ。東北大学大学院文学研究科博士後期課程中退。博士(文学)。北海道大学大学院文学研究院教授。日本近代文学・比較文学・表象文化論専攻。著書に『〈原作〉の記号学 日本文芸の映画的次元』、『接続する文芸学 村上春樹・小川洋子・宮崎駿』、『ひらがなの天使──谷川俊太郎の現代詩』(以上、七月社)、『フィクションの機構』1・2、『新編 言葉の意志 有島武郎と芸術史的転回』、『修辞的モダニズム テクスト様式論の試み』、『〈変異する〉日本現代小説』(以上、ひつじ書房)、『係争中の主体 漱石・太宰・賢治』、『花のフラクタル 20世紀日本前衛小説研究』、『物語の論理学 近代文芸論集』(以上、翰林書房)、編著に『映画と文学 交響する想像力』(森話社)など。

書評・紹介

ほんのうらがわ(編者による刊行エッセイ)

ブラントンの灯台を巡る旅/稲生淳

ブラントンの灯台を巡る旅

稲生淳(『明治の海を照らす』著者)

 私が生まれ育った串本町には樫野埼灯台と潮岬灯台があるが、これらの灯台は地元の人間にとっては遠足の定番コースといった存在で、特別な感情を抱いたことはなかった。しかし、20年前、所用で東京に行った帰り、三浦半島にまで足を延ばした折、たまたま立ち寄った観音埼京急ホテルでもらった小冊子「なぎさ」(京浜急行電鉄広報誌)の中に「横浜公園とブラントン」について書かれた一文を見つけた。ブラントンという名前に、どこか聞き覚えがあり調べてみると、樫野埼と潮岬の両灯台を造ったイギリス人技師であることがわかった。彼はスコットランド出身で明治政府が雇った最初の外国人だった。

 それまでに私はスコットランドを2度訪れたことがあり、エディンバラやインバーネスの都市以外にも、レンタカーでグレートブリテン島北東端のジョン・ノ・グローツやスカイ島にも足を伸ばしたが、灯台は一つも見てこなかった。ブラントンについて知るまでは、スコットランドが灯台先進国であり、我が国の灯台建設に多くのスコットランド人が関わっていたことなどを知る由もなかったのである。それ故に、ブラントンを知ってからは、上京する度に、横浜開港資料館などで、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』や『ファー・イースト』などの外国雑誌に、灯台やブラントンに関する記事が掲載されていないかどうか調べたりした。

 また、ブラントンが造った各地の灯台にも足を運んだ。犬吠埼灯台、剱埼灯台、石廊埼灯台、安乗埼灯台、樫野埼灯台、潮岬灯台、友ヶ島灯台、和田岬灯台、江埼灯台、部埼灯台、六連島灯台、角島灯台、伊王島灯台などである。フランス人技師ルイ・フェリックス・フロランが造った野島埼灯台、品川灯台(博物館明治村内に保存)、観音埼灯台、城ヶ島灯台も訪ねた。

 角島灯台を初めて訪問したのは1999年3月末のことである。角島大橋が架かる以前で、特牛港から連絡船に乗って渡った。灯台には、定期点検のため萩航路標識事務所の職員の方々が訪れていた。職員の方々のご厚意で灯台内部を見学させていただくことができ、レンズの置台にスティーブンソン社のプレートを見つけた時には宝物を発見したような気分だった。

 部埼灯台には門司からタクシーをチャーターして行ったが、道中、運転手から「僧清虚」の話を教えてもらった。伊王島灯台に行った際は時間に余裕がなく、伊王島の桟橋からレンタサイクルで灯台のある所まで坂道を駆け上った。六連島には下関の竹芝桟橋から連絡船で行った。小さな島ゆえに店もなく、空腹を紛らわせるために手持ちのお茶を飲みながら、港で帰路の船を待った。

 灯台は半島や岬、離島にあるため、灯台巡りにはかなりの不便も覚悟しなければならないが、本州最南端で生まれ育った私には「端っこ」を目指す習性があるのかもしれない。ちなみに、世の中には「先端愛好家」というべき人々がいて、彼らを「端から端まで族(end to end race)」というそうだ。イギリスでは、南西端のランズ・エンドからスコットランド北東端のジョン・ノ・グローツ間は、グレートブリテン島で最も長い距離となるため、自転車や徒歩の出発地点及び到着地点として親しまれている。イギリスで「フロム・ランズ・エンド・トゥ・ジョン・ノ・グローツ(from Land’s End to John o’ Groat(‘)s)」と言えば、「究極の旅路」「かなりの距離」という意味だそうだ。

 日本最東端の納沙布岬灯台から九州本土最南端の佐多岬灯台(灯台は大輪島にあるのだが)まで、ブラントンの灯台を巡る旅に出かけてみるのもおもしろいのではないだろうか。

明治の海を照らす──灯台とお雇い外国人ブラントン

稲生 淳 著

2023年11月28日

定価 3,200円+税

明治の海を照らす──灯台とお雇い外国人ブラントン


試し読み

明治の海を照らす
灯台とお雇い外国人ブラントン

稲生淳 著

定価:本体3,200円+税

2023年11月28日刊
四六判上製 / 352頁
ISBN:978-4-909544-33-9


「日本の灯台の父」の物語
明治初年、横浜の港に少壮のスコットランド人が降り立った。彼は、雇い主である日本政府の役人たちと衝突を繰り返しながらも、次々と全国の海難地帯に洋式灯台を建設していく──
お雇い外国人ブラントンの活躍と、その手になる灯台26基・灯船2隻について、丹念にまとめた一書。


目次
はじめに──ブラントンとの出会い

Ⅰ 灯台とお雇い外国人
1 世界史から見た灯台
2 灯台建設の背景
3 ブラントンの来日
4 ブラントンの灯台建設
5 灯台の維持管理
6 ブラントンと日本人上司
7 ブラントンと横浜のまちづくり
8 ブラントンと日本の近代化
9 ブラントンと岩倉使節団
10 お雇い外国人としてのブラントン
11 灯台とスコットランド
12 帰国後のブラントンと「手記」の執筆
13 ブラントンの灯台に対する評価

Ⅱ ブラントンの灯台
1 納沙布岬灯台(北海道)
2 函館灯船(北海道)
3 尻屋埼灯台(青森県)
4 金華山灯台(宮城県)
5 犬吠埼灯台(千葉県)
6 羽根田灯台(東京都)
7 横浜本牧灯船(神奈川県)
8 剱埼灯台(神奈川県)
9 神子元島灯台(静岡県)
10 石廊埼灯台(静岡県)
11 御前埼灯台(静岡県)
12 菅島灯台(三重県)
13 安乗埼灯台(三重県)
14 樫野埼灯台(和歌山県)
15 潮岬灯台(和歌山県)
16 友ヶ島灯台(和歌山県)
17 天保山灯台(大阪府)
18 和田岬灯台(兵庫県)
19 江埼灯台(兵庫県)
20 鍋島灯台(香川県)
21 釣島灯台(愛媛県)
22 部埼灯台(福岡県)
23 六連島灯台(山口県)
24 角島灯台(山口県)
25 白洲灯台(福岡県)
26 烏帽子島灯台(福岡県)
27 伊王島灯台(長崎県)
28 佐多岬灯台(鹿児島県)

Ⅲ ブラントンの故郷を訪ねて

参考文献
あとがき


著者
稲生 淳(いなぶ・じゅん)

1955年、和歌山県串本町生まれ。
甲南大学経済学部卒業、兵庫教育大学大学院学校教育研究科教科領域専攻社会系コース修了。
和歌山県内の小・中・高等学校、及び県外交流で広島県の高等学校に勤務。和歌山県立古座高等学校校長、和歌山県教育センター学びの丘所長、和歌山県立和歌山商業高等学校校長などを務め、2015年3月定年退職。

著書に『熊野 海が紡ぐ近代史』(森話社、2015年)、編著に『世界史とつながる日本史──紀伊半島からの視座』(村井章介監修、海津一朗との共編、ミネルヴァ書房、2018年)、共著に『熊野TODAY』(疋田眞臣編集代表、はる書房、1998年)、『海の熊野』(谷川健一・三石学編、森話社、2011年)、『つなぐ世界史2 近世』(岩下哲典・岡美穂子責任編集、清水書院、2023年)、『つなぐ世界史3 近現代/SDGsの歴史的文脈を探る』(井野瀬久美惠責任編集、清水書院、2023年)など。

書評・紹介

ほんのうらがわ(編者による刊行エッセイ)

洗濯から始まった野田泉光院と村人の交流/板橋春夫

洗濯から始まった野田泉光院と村人の交流

板橋春夫(『日本民俗学の萌芽と生成』著者)

 近世の紀行文は、日本民俗学にとって大事な資料である。既に忘れられた生活が描かれるだけでなく、現代の民俗を再考する契機を与えてくれる。東北地方を旅に暮らした菅江真澄は有名だが、これは「文人の旅」である。その対極に位置するのが回国行者や修験者たちの「修行の旅」である。ここでは修行の旅に出た野田泉光院の日記を紐解いてみよう。

 宮崎県佐土原の安宮寺住職であった野田泉光院(のだ・せんこういん/1756~1835)は、醍醐寺派の修験でもあった。文化9年(1812)9月、修験の代表的な修行地をめぐる旅に出た。その旅は足かけ6年に及び、日々の見聞や体験を小まめに書き留めた。飫肥(おび)(現、宮崎県日南市)の城下に宿泊したとき、乞食坊主のような支度だったので、宿では一番汚い部屋に案内された。泉光院が便所へ行こうとして暗かったので、自分の提灯を点けて便所に行った。すると、その提灯を見た宿の人がびっくりし、急遽上等な部屋に替えてくれた。泉光院は「醍醐御殿御用」と書かれた菊紋入りを用いたのである。菊紋は天皇家関係の紋所である。

 民家や寺に泊めてもらうことが多く、お金を出すと断られ逆にお土産をもらった。それを繰り返すうちに、泉光院は修行の旅ではお金を払わなくてよいと気づく。安芸の宮島ではお茶をご馳走になって親切にしてもらい、帰ろうとしたらお茶代を請求されたという。すべてが無料でもなかったようである。宿屋では宿泊代を払うが、一般の民家は基本的に宿泊代を払っていない。現在であれば、電車賃と宿泊代が大きな負担となり、長期間の旅はむつかしい。

 泉光院は平四郎という強力(ごうりき)を雇って夜具を担いでの旅であった。現在、数日間の旅行ではトランクに着替えを入れるが、泉光院たちは洗濯をどうしていたのだろうか。それを教えてくれる記録が旅に出て四年後の日記に詳しく出ている。文化13年(1816)9月7日、下野国金丸村(現、栃木県大田原市)へ着いた。金丸村で托鉢に出かけ、天気も良いので洗濯をしたいと思っていたところ滞在するのに手頃な庵があった。庵の隣家に尋ねると、庵は無住であると教えてくれた。洗濯をしたいので貸してもらえないかと頼む。すると隣家の主人は名主へ問い合わせに出かけてくれた。素性も知らない初対面の人のために交渉を買って出てくれたのである。なんと親切な対応だろうか。

 昼間なので皆農作業に出ており留守であった。ということで、隣家の主人は「しばらく私の家に泊まりなさい」と言う。この親切な対応に驚くばかりである。泉光院は各地で同じように宿泊させてもらっていたのである。夜になって相談に出かけてくれたところ、借りられることになった。庵は真言宗の地蔵寺という。

 さて、泉光院たちが住みつくと、話にやって来る者もあり、加持祈祷を頼まれた。庵に住みついて20日間ほど経ったある夜、30歳ばかりの泥酔した男が庵にやってきた。「この庵は6軒の檀家で維持しているが、俺に一言も沙汰がないのはどういうことだ」と談判に来たのである。翌日、気になった泉光院は確認のため近所の檀家を訪ねると、まったく問題がないことがわかり、ホッとする。泉光院たちは地域の人と懇意になり、食物なども頂く。村人からたくさんの到来物が届くのは、まるで貴種歓待である。日記に出ている食品だけで生活できそうである。よほど居心地が良かったのだろう。10月22日まで逗留した。正月を過ごすための年宿とは異なり、秋の忙しい時期に45日間も長居したのである。

 その期間中、頻繁に贈答品が届くし、巳待や祈祷などの際にはご馳走がふるまわれる。贈答者を見ると隣組からの到来が多い。それ以外は加持祈祷をした際の贈答である。金五左衛門は小豆と味噌に、2首を添える風流人であった。金五左衛門宅で歌会も開催している。日記には「今日も和漢の付句する」とある。こう見てくると、金五左衛門という文化人が泉光院たちを引き留めた可能性が高い。茂左衛門は泉光院との長話を好んだらしく、泉光院は辟易している様子である。この村には、よそ者を歓迎する風があった。『野田泉光院』(1980年)を執筆した宮本常一(1907~1981)は、いつか金丸村を訪問してみたいと語っているが、それは果たされていない。

 この居心地の良い長期滞在は、洗濯をしたいということから始まった。当時の洗濯はどのようなものであったのだろうか。そのことで思い出すことがある。建築学科の教員をしていたとき、学生たちに洗濯や風呂などの水まわりの空間について講義した。その際に洗濯の変遷を話した。聴講していた和服の高齢女性がいたので着物の洗濯をどうするかと学生に質問してみた。学生たちは脱いだ着物はそのまま洗濯機に入れる、タライで洗うなどの回答をした。かさばる着物をどうやって洗濯機に入れるのかと言うと彼らは考え込んでしまった。和服の女性が手を挙げて解説してくれた。彼女は「着物をこわして」と言ったと思うが、「壊す」と理解した学生が多かったようである。いったん糸を抜いて1枚の反物に分解して洗う。そして再び着物に仕立てる。すると、全員が驚きの声を上げた。洗濯板や糊付けの話は、現代の学生には異次元の世界であった。

 さて、江戸時代に戻る。泉光院たちは9月7日に泊まり始めたが、日記には「十二日、洗濯したぢする」、「十五日、先達て頼みし染物出来、洗濯物あり」とある。さらに「二十五日、洗濯物の糊拵へ等する」とあり、「二十六日、洗濯物糊する」と記される。そして「二十七日、衣類仕立す」とある。10月6日に「洗濯物成就」と記されている。この時代の洗濯は、縫い付けた糸をすべてほぐし、1枚の布にしてしまう。それを水洗いしてきれいに洗い、板張りで乾かす。そのときに糊をつける。それが「糊する」である。乾いてから仕立るが、これは縫い直すということである。裁縫は泉光院または平四郎がやったとは思えない、地元の女性に頼んだのだろうか。染め物は近くの紺屋に頼んだと推測する。200年前、野田泉光院は45日間に及ぶ滞在型の民俗調査を実践していたのであった。

日本民俗学の萌芽と生成──近世から明治まで

板橋 春夫 著

2023年10月20日

定価 5,400円+税