〈接続する文芸学〉のこと/中村三春

〈接続する文芸学〉のこと

中村三春(『接続する文芸学』著者)

 この本で主に取り上げた3人の作家の作品との出会いは、それぞれ出会いのタイプが異なっている。村上春樹は、初期作品からずっと発表されるたびに読んでいた。最初は、修士課程の頃に後輩が「つるつる読めるよ」と言って貸してくれた『風の歌を聴け』だったと思う。そのつるつる読める作家が、後に世界のムラカミなどと呼ばれるようになるとは、当時思いもしなかった。それから40年近く、村上作品が多彩に展開するとともに私も齢を重ねて、少しずつ書くものにも変化があった。本書に収めた3編の論考は、いずれも人と人との繋がりのあり方に焦点を絞ったもので、最近の読み方を示すものである。ただしこれはむしろ、おそらく40年前の読み方に戻ったというのが近いだろう。

 全く逆に小川洋子の作品には、50歳を過ぎてから初めて出会った。『原稿零枚日記』が出た時に書評を書いたことはあったが、本格的に読み始めたのは、学生が研究発表で取り上げ、自分も勉強しなければと思ったのがきっかけである。読んでみると、これがおもしろい。いわゆるポスト村上の小説にあまり興味がなかったが、私の感性にどこかしら響いたようだ。また、小川作品と『アンネの日記』との繋がりにも、大きく心を動かされた。かつて、父の書棚にあった、『アンネの日記』の本邦初訳である皆藤幸藏訳『光ほのかに アンネ・フランクの日記』を読んだ記憶が蘇った。アンネ関係書や、ホロコーストに関する文献が、多数日本語に翻訳されており、それを参照することが容易であったことも、本書の論考を展開するのにきわめて好都合であった。

 宮崎駿作品との出会いについては、この二人ともまた異なる。もちろん、国民的なアニメーション作家である宮崎の作品は逐一見ていたが、本格的に論じたのは、大学(前任校)で表象文化論の授業を担当したことが決定的な契機となった。講義において、草創期の『メトロポリス』『フランケンシュタイン』から、ジョージ・パル、ダグラス・トランブルといったアメリカの作家たちを経由して展開した近未来SF映画の系譜において、『風の谷のナウシカ』を考えてみたのである。本書に収めた論考が、イメージ論からみた近未来SF映画論という感触になっているのはそのためである。『風立ちぬ』が封切られるに及び、そこに至るまでの作品系列も、『ナウシカ』と同様の手法で一貫して論じることを試みたのである。

 巻末で取り上げた伊藤俊也監督の『風の又三郎 ガラスのマント』は、花巻市の宮沢賢治イーハトーブ館で行われた宮沢賢治イーハトーブ学会のシンポジウムで『風の又三郎』が取り上げられた際、伊藤監督と脚本家の筒井ともみ氏のトークショーとともに行われた上映会で初めて見た。戦前の有名な島耕二監督作品について、かねてより短い論考を書いていたこともあり、いつか論じてみたいと思っていた。武蔵野大学で講演のお話をいただいた際、その思いを実現したのである。七月社から刊行した前著である『〈原作〉の記号学 日本文芸の映画的次元』の延長線上に、「新・〈原作〉の記号学」を念頭に論じたものである。

 どれもこれも私にとって、忘れられない大事な作家・作品ばかりである。本書の学術書としての出来映えはともかくとして、これを一著にまとめることができたのは、自分としてはたいへん感慨深い。

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 本書のタイトルは、〈接続する文芸学〉と〈物語は接続する〉の間で最後まで悩んだ。堅めの前者に比べて、後者の方が語感が柔らかく、普及するのに効果的だろうと思われた。ただし、「〇〇は〇〇する」式の題名が最近しばしば類書に見られたことと、いささかなりとも学術書としての性格を示したいと考え、作家名を具体的に副題に入れることで、七月社の西村篤さんとも折り合いがつき、最終的にこのようなタイトルに落ち着いたのである。たぶん、私以外思いつかない、やや奇抜な題名ではないかと考える。

 〈接続する文芸学〉という言葉自体は、ここ何年かの間に、講義などで用いてきた。美学・芸術学に基礎を置く文芸学という名称は、純理論的で閉鎖的であり、他に自らを開かないという印象がある。美や芸術性以外の夾雑物・雑音を排除して、純粋な芸術として文芸を認める方法を、岡崎義恵は「文芸学的還元」と呼んだ。「文芸学的還元」には、それなりの論拠と実効性があるだろう。しかし、文芸学の理論史と、それから何よりも私自身の考え方(性向と言うべきか)に照らせば、むしろ文芸のおもしろさや文芸学の可能性は、明らかに一見夾雑物・雑音と思われるような多様性・複数性・例外状態にこそあると言わなければならない。そのためには、純粋・完結した対象として文芸を見るのではなく、自らならざる何ものかと接続されてあるものとしてそれをとらえ、さらにそれを受容することもまた、他者にさらされて自己が変容する様態にあるものとして、理論を整備しなければならないだろう。文芸・芸術・文化の意義は、そのような接続においてこそ見出される。

 物語は、それ自体以外の何ものかとの接続において作られ、また受容される。このことは、物語が社会的な現象・行為であることから見て、言うなれば当然のことかも知れない。本書は、ある意味ではそのような物語の基盤に立ち返り、その根元的な見方を少しでも最後まで貫徹しようと試みたものである。

 本書がいささかなりとも、そのような意味で、読者との間で接続の回路を開くことができれば幸いである。

接続する文芸学──村上春樹・小川洋子・宮崎駿

中村三春 著

2022年2月22日

定価 3,500円+税