洗濯から始まった野田泉光院と村人の交流/板橋春夫

洗濯から始まった野田泉光院と村人の交流

板橋春夫(『日本民俗学の萌芽と生成』著者)

 近世の紀行文は、日本民俗学にとって大事な資料である。既に忘れられた生活が描かれるだけでなく、現代の民俗を再考する契機を与えてくれる。東北地方を旅に暮らした菅江真澄は有名だが、これは「文人の旅」である。その対極に位置するのが回国行者や修験者たちの「修行の旅」である。ここでは修行の旅に出た野田泉光院の日記を紐解いてみよう。

 宮崎県佐土原の安宮寺住職であった野田泉光院(のだ・せんこういん/1756~1835)は、醍醐寺派の修験でもあった。文化9年(1812)9月、修験の代表的な修行地をめぐる旅に出た。その旅は足かけ6年に及び、日々の見聞や体験を小まめに書き留めた。飫肥(おび)(現、宮崎県日南市)の城下に宿泊したとき、乞食坊主のような支度だったので、宿では一番汚い部屋に案内された。泉光院が便所へ行こうとして暗かったので、自分の提灯を点けて便所に行った。すると、その提灯を見た宿の人がびっくりし、急遽上等な部屋に替えてくれた。泉光院は「醍醐御殿御用」と書かれた菊紋入りを用いたのである。菊紋は天皇家関係の紋所である。

 民家や寺に泊めてもらうことが多く、お金を出すと断られ逆にお土産をもらった。それを繰り返すうちに、泉光院は修行の旅ではお金を払わなくてよいと気づく。安芸の宮島ではお茶をご馳走になって親切にしてもらい、帰ろうとしたらお茶代を請求されたという。すべてが無料でもなかったようである。宿屋では宿泊代を払うが、一般の民家は基本的に宿泊代を払っていない。現在であれば、電車賃と宿泊代が大きな負担となり、長期間の旅はむつかしい。

 泉光院は平四郎という強力(ごうりき)を雇って夜具を担いでの旅であった。現在、数日間の旅行ではトランクに着替えを入れるが、泉光院たちは洗濯をどうしていたのだろうか。それを教えてくれる記録が旅に出て四年後の日記に詳しく出ている。文化13年(1816)9月7日、下野国金丸村(現、栃木県大田原市)へ着いた。金丸村で托鉢に出かけ、天気も良いので洗濯をしたいと思っていたところ滞在するのに手頃な庵があった。庵の隣家に尋ねると、庵は無住であると教えてくれた。洗濯をしたいので貸してもらえないかと頼む。すると隣家の主人は名主へ問い合わせに出かけてくれた。素性も知らない初対面の人のために交渉を買って出てくれたのである。なんと親切な対応だろうか。

 昼間なので皆農作業に出ており留守であった。ということで、隣家の主人は「しばらく私の家に泊まりなさい」と言う。この親切な対応に驚くばかりである。泉光院は各地で同じように宿泊させてもらっていたのである。夜になって相談に出かけてくれたところ、借りられることになった。庵は真言宗の地蔵寺という。

 さて、泉光院たちが住みつくと、話にやって来る者もあり、加持祈祷を頼まれた。庵に住みついて20日間ほど経ったある夜、30歳ばかりの泥酔した男が庵にやってきた。「この庵は6軒の檀家で維持しているが、俺に一言も沙汰がないのはどういうことだ」と談判に来たのである。翌日、気になった泉光院は確認のため近所の檀家を訪ねると、まったく問題がないことがわかり、ホッとする。泉光院たちは地域の人と懇意になり、食物なども頂く。村人からたくさんの到来物が届くのは、まるで貴種歓待である。日記に出ている食品だけで生活できそうである。よほど居心地が良かったのだろう。10月22日まで逗留した。正月を過ごすための年宿とは異なり、秋の忙しい時期に45日間も長居したのである。

 その期間中、頻繁に贈答品が届くし、巳待や祈祷などの際にはご馳走がふるまわれる。贈答者を見ると隣組からの到来が多い。それ以外は加持祈祷をした際の贈答である。金五左衛門は小豆と味噌に、2首を添える風流人であった。金五左衛門宅で歌会も開催している。日記には「今日も和漢の付句する」とある。こう見てくると、金五左衛門という文化人が泉光院たちを引き留めた可能性が高い。茂左衛門は泉光院との長話を好んだらしく、泉光院は辟易している様子である。この村には、よそ者を歓迎する風があった。『野田泉光院』(1980年)を執筆した宮本常一(1907~1981)は、いつか金丸村を訪問してみたいと語っているが、それは果たされていない。

 この居心地の良い長期滞在は、洗濯をしたいということから始まった。当時の洗濯はどのようなものであったのだろうか。そのことで思い出すことがある。建築学科の教員をしていたとき、学生たちに洗濯や風呂などの水まわりの空間について講義した。その際に洗濯の変遷を話した。聴講していた和服の高齢女性がいたので着物の洗濯をどうするかと学生に質問してみた。学生たちは脱いだ着物はそのまま洗濯機に入れる、タライで洗うなどの回答をした。かさばる着物をどうやって洗濯機に入れるのかと言うと彼らは考え込んでしまった。和服の女性が手を挙げて解説してくれた。彼女は「着物をこわして」と言ったと思うが、「壊す」と理解した学生が多かったようである。いったん糸を抜いて1枚の反物に分解して洗う。そして再び着物に仕立てる。すると、全員が驚きの声を上げた。洗濯板や糊付けの話は、現代の学生には異次元の世界であった。

 さて、江戸時代に戻る。泉光院たちは9月7日に泊まり始めたが、日記には「十二日、洗濯したぢする」、「十五日、先達て頼みし染物出来、洗濯物あり」とある。さらに「二十五日、洗濯物の糊拵へ等する」とあり、「二十六日、洗濯物糊する」と記される。そして「二十七日、衣類仕立す」とある。10月6日に「洗濯物成就」と記されている。この時代の洗濯は、縫い付けた糸をすべてほぐし、1枚の布にしてしまう。それを水洗いしてきれいに洗い、板張りで乾かす。そのときに糊をつける。それが「糊する」である。乾いてから仕立るが、これは縫い直すということである。裁縫は泉光院または平四郎がやったとは思えない、地元の女性に頼んだのだろうか。染め物は近くの紺屋に頼んだと推測する。200年前、野田泉光院は45日間に及ぶ滞在型の民俗調査を実践していたのであった。

日本民俗学の萌芽と生成──近世から明治まで

板橋 春夫 著

2023年10月20日

定価 5,400円+税