日本人そして在留外国人たちのなかの「あれ」/三木英

日本人そして在留外国人たちのなかの「あれ」

三木英(『ニューカマー宗教の現在地』編者)

 初詣に出かければ、墓参りにも行く。安産祈願も、合格祈願だってする。結婚式はキリスト教式か神道式が多いし、葬式は仏教。旅先では有名社寺を訪れて賽銭を投じ、年末の聖なる夜に荘厳な気持ちになる。つまり神仏や祖先と疎遠というわけではない。

 死者の冥福を祈ることに違和感を持たず、地鎮祭に対して非科学的と反対の声をあげることもない。冥福とは、現世とは違う世界、つまり冥界での幸せのこと。心からそれを祈る人は、冥界が存在し、人は死んだらそこに赴く、と信じていることになるのだが。また地鎮祭は神に対し、これから工事で騒がしくなることを伝えて作業の円滑に進むことを祈願するもの。ナンセンスと叫ばないのは、大地が神によって護られていると信じているからなのか。

 これほどに宗教的に行動し、宗教的な感性を持つ人たち。これが日本人である。それでも日本人の多くが「宗教はこわい」「宗教は嫌い」と口に出すのは、矛盾しているように感じる。

 これに対する反論はこうなるだろう。「あれは宗教ではなく習慣だ、文化だ」「日本人として当然の行いだ(なので宗教ではない)」と。そう弁ずる人たちに、研究者の立場から「あれは宗教的な意識や行動と認識できる」と説いたところで、簡単に受け入れてはもらえないかもしれない。

 それならば、「あれ」でいい。習慣のような文化のような、人であれば当然行うべきと考えられているものを含んだ「あれ」――2023年流行語の「アレ」とは異なる――でいいだろう。その「あれ」が具わっているから、日本人なのである。人智を超えた大いなるものを感じて祈り、何かに護られ生かされていると感じて「御蔭様で」と口に出せるような日本人の、その基底にある「あれ」。

「あれ」は日本人だけが持つのではない。匹敵するものは世界のどこにも見出せる。各地に、その地ならではの習慣・文化があって、そこに生まれ育つことで人々は文化的存在として形成されていく。先祖の祭りを丁重に行う文化のなかで韓国人ができあがり、毎秋に――アニメ映画『リメンバー・ミー』で描かれたように――骸骨姿の死者との交流の経験を重ねてメキシコ人がつくられていく。多くが集まって同じ方向に向かい祈りを続けていくなかでアラブ人やパキスタン人、インドネシア人等々が育っていく。となれば、人間を理解するために(種々ある)「あれ」を知ることは価値がある。

 しかし宗教から距離を置きたがる日本人の視界に、自身のものはもちろん、外国人の「あれ」も入ってこない。いま日本各地に、かつてないほど訪日客が殺到し、それだけではなく日本国内にはかつてない程の数の外国出身者が暮らし、学び、働いている。そして彼らとの良好な関係性をつくるため、様々な施策がなされている。ところが、そこには「あれ」への配慮が十分ではない。文化的存在としての人間の基礎をなす「あれ」がほぼ、議論の俎上に見出せない。

 日本に在留する外国人は日本国内に既に、自分たちの教会・寺院・マスジド(モスク)をいくつも設けている。移民が自分たちの信仰を大切にしているからこそ、この日本に設けるのである。この大切なものを日本人は、知らないままでよいだろうか。

 日本人には、外国出身の新たな隣人たちの宗教的な側面に関心を向けていただきたく思う。これが本書刊行にあたっての編者の意図である。そして同時に、日本人の持つ宗教的側面にも、あらためて目を向けることも望んでいる。「共生」を謳うなら、先方のことだけでなく自身のことも、見詰め直す必要があると思うのである。

ニューカマー宗教の現在地──定着する移民と異教

三木 英 編

2024年7月23日

定価 4,300円+税