世間は広いようで狭い──野田泉光院5代目と柳田國男の出会い/板橋春夫

世間は広いようで狭い──野田泉光院5代目と柳田國男の出会い

板橋春夫(『日本民俗学の創成と確立』著者)

 世の中は広いようだが、案外狭いものである。私は関東の人間であり、関西方面へ出掛ける機会は極めて少ない。大阪へ出掛けた時であった。歩道橋を歩いていると、向こうから見たことのある男性が歩いてくる。高校時代の同級生であった。彼も私に気づいたらしく、立ち止まって「たまげたなあ、ここで会うとは」と言った。お互いに方角が異なっていたし、ほんのわずかの会話をしてすれ違った。その時の彼の笑顔を今も覚えている。たまげるとは、驚いたことを表現した言葉である。「世間とは狭いなあ」と思ったものであった。不思議なことにその後、彼に会っていない。

 これは、私のささやかな体験談であるが、全国各地を旅した柳田國男ならば、「世間は広いようで狭い」体験を何度もしてきたに違いない。ここから述べるのは、歴史上の事実を知って後世に生きる私たちの特権である。もちろん歴史上の人物である当人たちは、その時点では知る術もない話ではある。司馬遼太郎がどこかで書いていたが、私はビルの高い部屋から下を行き交う人たちをのんびり眺めている。すると、歴史のなかを行き交う人たちが歩いている。どう行けばどこへ出るかもよく見通せるのである。しかし、歩いている歴史上の人物はそれがわからない。

 椎葉村への旅をした柳田は、明治41年(1908)7月、三兄の井上通泰(1866~1941)の友人である杉田直という人物に会っている。杉田は、兄の通泰と東京帝国大学医学部の同窓であり、同じ眼科医であった。兄の井上は、弟柳田國男が九州旅行に出て、宮崎へ立ち寄るのでよろしくと伝えてきた。あらかじめやってくる日の連絡があった模様である。杉田は柳田が到着した夜、柳田の宿泊する旅館へ挨拶に出掛けている。

 杉田は眼科医としてよりも、俳人として有名であった。俳号は杉田作郎である。筆まめな人で日記を残している。それが『杉田作郎日記』である。その中に柳田関連の記事が出てくるのである。関連する部分を紹介する。読みやすさを考慮し、記載の体裁を若干変えている(詳細は『日本民俗学の創成と確立』参照)。

七月九日(雨)コノ朝、司法省法制局参事官柳田國男氏(井上通泰氏舎弟)着宮。夕桑原氏ヨリ通知ニ付夜訪問仕申候。九時半帰宅。
七月十日(晴)柳田参事官午後一時ヨリ、郡会議事堂ニテ農政経済講話アリ。午後五時、柳田参事官、浅井技師同伴来訪。午後六時半、柳田氏慰労会(泉亭)。内ニ会者三橋・亥角・浅井・塚本・渡辺、吉田、成合、七人、午後九時散会。帰途旅館神田橋柳田氏ヲ訪ヒ、同訪ノ桑原氏同道、十時半帰宅。
七月十一日(曇)朝八時柳田参事官ノ出発ヲ神田橋ニ見送ル。同行者、渡辺、吉田(椎葉迄同行)、見送り三橋、浅井、後レテ成合氏参。
七月二十八日(晴)井上通泰氏ヨリ礼状来ル。

 以上の記事は、拙著の刊行で初公開となる資料である。柳田と宮崎県の役人たちの動向や椎葉村へ向かう柳田と見送りまでが詳細に記される。柳田研究にとっても重要な発見と言える。小田富英編『柳田國男全集 別巻1 柳田國男年譜』(筑摩書房、2019年)を確認してみると、該当部分の修正を迫る貴重な資料であった。

 ここで話題にしたいのは、ビルの高い部屋から見ている歴史の景色についてである。杉田は眼科医院の開業に際して宮崎市へ出たが、元々は佐土原の人であった。「佐土原の杉田」と言って気づく人は地元の郷土史家くらいであろう。「杉田直=杉田作郎」という人物は、『日本九峰修行日記』を執筆した野田泉光院の5代目にあたる。昭和9年(1934)が泉光院の没後百年にあたるので、杉田は法要を営むと同時に、泉光院が書いた日記を活字本として刊行することを思い立った。ところが、泉光院の自筆本に欠本があることに気づいたのであった。

 泉光院は自筆本とそれを2冊写して、佐土原の藩主島津氏と修験の本山の醍醐寺へそれぞれ寄贈していた。活字本を出そうとしたときに一部が抜けていたので、杉田は醍醐寺へ問い合わせて探してもらったという。昭和10年(1935)、ようやく全巻揃って活字化に成功した。このエピソードもドラマのようである。そのことは石川英輔『泉光院江戸旅日記』(講談社、1994年)に詳しい。

 歴史にifはないと言うが、明治41年に柳田が宮崎へ来た時に、杉田が柳田へ泉光院が書いた『日本九峰修行日記』を見せていたらどうなったか。柳田は東京帝国大学を明治33年(1900)に卒業し農政官僚になったが、まもなく内閣文庫に入り浸って、そこで菅江真澄の紀行文や屋代弘賢が発した「諸国風俗問状」に対する答書などを読みはじめていた。杉田が野田泉光院の日記を柳田に見せていたら、柳田は大いに関心を持ったことは疑いない。柳田はそのチャンスをほぼ永遠に失ったのである。すれ違ったと言うべきか。

 庶民生活に分け入った旅の実践者が野田泉光院であった。真澄の旅とは庶民生活への視点も異なっている。強いて言えば、好奇心たっぷりで人びとの生活の中へ積極的に入り、厭なことやおかしいことに対して、率直に厭だ、おかしい、と歯に衣着せぬ書きっぷりである。庶民性豊かな記述に満ちている。当然内容は民俗性が豊かである。

 あの時、杉田が柳田に泉光院の日記を見せていたら、日本民俗学の生成はもっと変わった可能性がある、と想いをめぐらせてみる。柳田が創始する民俗学の庶民目線の捉え方も大きく変わっていたかもしれない。ビルの上からそんな景色が見えてくるのであった。もちろん、当人たちにはわからない。夢のような想像たくましい出来事に近いものである。それにしても、やはり「世間は広いようで狭い」と感じるのである。

日本民俗学の創成と確立──椎葉の旅から民俗学講習会まで

板橋 春夫 著

2024年10月29日

定価 6,000円+税