フィールドワークの極意/越智郁乃

フィールドワークの極意

越智郁乃(『グローバリゼーションとつながりの人類学』編者)

 フィールドワーク(英:Fieldwork)とは、研究者が現地で行う実地調査のことを意味する。文化人類学以外にも、地質学や動物学、植物学、社会学や政治学でもその用語が用いられる。研究対象のことをフィールドと呼ぶが、それは地理的な地域を指すこともあるし、特定の場所やモノ、コト、現象などを意味する時もある。

 文化人類学の教科書には、「文化人類学的フィールドワークとは、①単独で、②1~2年、あるいはそれ以上にわたって現地に住み込み、③現地言語の習得に努めながら現地調査をすること」と説明される。しかし、今日忙しい教員が大学を1〜2年離れることができるのは、申請してもいつ当たるともしれない研究休暇くらいだ。実際は渡航先によって数日から10日程度、長くとも1ヶ月程度のもので、年単位の長いフィールドワークは学生の「通過儀礼」になりつつある。

 では「よいフィールドワーク」とはどんなものだろう。今でこそ様々な形態のフィールドワークに関する良書が出版されているが、私が大学院に進学した2001年にはまだそれほどフィールドワークの教科書はなかった。もちろん、『文化を書く』(ジェームス・クリフォード、ジョージ・マーカス編、1996[1986]年、紀伊國屋書店)などを通じて提起された民族誌を書く者がもつ権力性に対する批判について学び、それを乗り越えるための試みについて議論した。

 しかし、不出来な院生の私が心惹かれたのは、フィールドワークでの息抜きの方法だった。先生が大学院ゼミの終わった後に「こんなものがあるよ」と見せてくれた「調査必携物」という、先生の先輩研究者が書いたイラストの中には、日本語の娯楽小説誌が含まれていた。『文藝春秋』だったか『オール讀物』だったか今では思い出せないが、フィールドノート、鉛筆、カセットテープ録音機、カメラ、フィルム、と当時の調査時に必要だったものの中に混じっていたそれは、一際分厚かった。そして「人類学と全く関係ない本がよい」というような言葉が添えられていたように思う。

 後に自分が長いフィールドワークに出て分かったのは、「よいフィールドワークをしなければならない」というプレッシャーとの戦いだった。1年と決めて調査を始めても、この日1日をあと364回過ごすのかと思うと、初日の夜に息が詰まりそうになったのをおぼえている。24時間、どこでもなんでもフィールドワークしようとすると頭がショートする。これが日本から遠く離れた全く言葉が違う国や地域ならどれだけ大変か。そんなフィールドで気軽に読むことのできる雑誌は、年単位先の帰りの飛行機まで簡単には日本に帰ることができないフィールドワーカーにとって、心休まるものであっただろう(しかも帰る時に捨てても惜しくない)。つまるところ「よいフィールドワーク」とは、フィールドワークとそうでない時を区切り、バランスをとりつつ行われるものなのだ。

 もう一つ心に残っているのは、先生が毎年12月末に必ずフィールドワークに行くことだ。多くの研究者は、夏や春の長期休みの間に出かける。しかし、教員ともなると長期休みにも入試や会議の業務があり、その合間を縫って調査をねじ込むことが多く、毎度日程調整に苦労する。それに対して先生は、試験や会議のない年末に固定することでむしろ出かけやすいのだという。こうして毎年、フィールドに出かけるリズムを作っていたのだと、今になって思う。

 先生は、『文化を書く』以前も以降も重要なのは「フィールドに行き続けること」であるのを体現していたのだろう。学生にも事あるごとに「フィールドの人とは一生の付き合いを」とおっしゃっていた。当たり前の話であるが、フィールドで出会った人々はやがて死に、小さかった子は大人になる。フィールドワークとは、そうしたフィールドのライフサイクルの中に自らを位置づけ続ける終わりのない営みなのだ。

 2021年の今日現在まで、新型コロナウイルス感染症の流行拡大とともに、多くの研究者のフィールドワークが中断されている。フィールドワークに行けない今の私は、無理をしながら調査に行っていた時期よりも忙しく感じている。計算してみれば、フィールドワークに出かけているのは年の5%程度で、もしかして大した数字ではないのかもしれない。しかし、この何十年もフィールドに出かけていたというリズムが失われたことは、単に資料を得られないということに留まらない日常への影響があるように思う。リズムを取り戻せる日はいつ来るのか。

 さて、私が編者の一人として2021年4月末に刊行した『グローバリゼーションとつながりの人類学』は、広島大学大学院総合科学研究科・髙谷紀夫先生の退職を祝した記念論集である。先生から文化人類学を学んだ教え子と、長らく髙谷先生の近くでご同僚として研究してこられた先生方の論文を掲載する。フィールドワークに大きな影響が出た年に、改めてフィールドワークの重要さについて提示できればと思う。

グローバリゼーションとつながりの人類学

越智郁乃・関恒樹・長坂格・松井生子 編

2021年3月31日

定価 5,600円+税